ヅカローに行ってきた日記
ハイロー好きな人が『HiGH&LOW -THE PREQUEL-』で初宝塚を経験した日の備忘録です
私の持っている宝塚知識レベルは
・漫画「かげきしょうじょ!!」を読んだことがある
・舞台「宝塚BOYS」を見たことがある
のみです。
まず劇場は席の間が狭めだけどかなり見やすいし、チケットの価格もありがたかった。
あと思っていたよりカジュアルな服装のお客さんも多かった。
ただ、下調べでドレスコードがないというのを知り、金髪+黒マスク+青スカジャン+ダメージジーンズというかなりいかつめな鬼邪高イメージコーデで行ったので、隣席のマダムがものすごく驚いた顔で私のことを5秒くらい凝視されていました。驚かせて申し訳ない。
1幕
- めちゃめちゃハイローで最高~~~!
- 生オケでハイロー楽曲が聴けるというだけでもチケット代金の元を取った感がある
- おそらく権利的な問題だと思うんだけど、宝塚版JUMP AROUND∞も聴いてみたかったな……
- ビカビカ光る大階段から各チームが登場するオープニングでブチ上げ
- Rude Boysの「だから誰よりも高く飛ぶ」でバレエのあのジャンプしてたのハオ
- 隣席のマダムが「幼馴染のノボルはムショ~♪」のところで「ムショ……!?」と呟いていらしたのがウケた
- ROCKYの「Party time」でミラーボールが光り出すのズルすぎ。てか宝塚劇場ってミラーボールあるんだ
- 苺美瑠狂のアクションすげ~~~良かった!!!!!!!ララが対等に戦ってたのも良かったし……
- 女性キャラクターはお飾りでしかなかったハイローシリーズで力強いアクションが見れるのめちゃ嬉しい!あれは逆輸入してほしい
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私は鬼邪高が一番好きなので、ちょっと物足りなさというかもう少し本筋に絡んできてくれたらな…と思った。まあ95分にまとめるうえで仕方のないことですが…
- 「出ちゃった♡」「出ちゃったってお前……死んだばっかりだろ!?」がいい具合にトンチキでハイローみを感じた
- 音源をitunesで買えるのありがたい
- 宝塚版だとRUN THIS TOWNのバラードアレンジverが1番好き
2幕
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拍手のタイミングが難しい
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1幕はSWORDの頭が出てきたら拍手をすれば良かったからわかりやすかったんだけど、2幕はよくわからなかったので周りに合わせてなんとなくでやっていた。1曲歌い終わったタイミングで拍手するのは一般的なミュージカルでも同じだけど、おそらく上の方の人(〇番手?とかかな?)の登場時や銀橋を渡るとき?にも拍手をするっぽい。正直衣装の色が一人だけ違うとかじゃないと見分けがつかないので、そこはちょっと難しかった
-
ラインダンスで1人転んでしまった人がいたんだけど、すぐ立ち上がって合流していて「そう、Show must go onよ…!」と思った(誰目線?)
- でっかい豪華な羽を背負った人が2人大階段を降りてきたので、OKこの2人が男役と娘役のトップスターね。これは知ってるぞ。と思ったら、次にもっと豪華な羽を背負った人が登場したので、違うんかい!になった
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でっけ~羽背負ったり光るシャンシャンを持って歌ったり踊ったりするの意味わかんないんだけど、とにかく楽しいから全然OKだな。カプリチョーザ♪カプリチョーザ♪
宝塚でハイローを舞台化すると聞いたときは一体どうなるんだ……?という不安の方が大きかったけど、蓋を開けてみればめちゃくちゃハイローだったし初宝塚を満喫しました。
宝塚の偉い人へ
ぜひ続編もお願いします。なぜなら私が宝塚版の轟洋介を見たいからです。よろしくお願いします。
おわり
箱の中に最後に残ったのは希望でした、
※この記事はメサイア黎明乃刻のネタバレを含みます
刻シリーズからのファンでまだまだメサイアシリーズのことは勉強中なのでおかしなところがあったらそっと教えてもらえると助かります。
黎明を見終えてとても清々しい気持ちになった。辛くて苦しい道のりを歩いてきた彼らが迎えた結末を見て、ただただ清々しい気持ちだけが残った。
ひたすらに愛の話をしてきたメサイアシリーズが好きだなと思った。もっと早く出会いたかった気持ちもあるけど、今は黎明に立ち会えたことへの感謝が大きい。
・万夜とレネ
昔のメサイアを乗り越えるための解決策が「万夜と小太郎二人のメサイアになる」ことなの、力技だけどレネだからこその説得力を持っていたように思う。レネ、あまりにも光すぎる。
レネという眩しいほどの太陽みたいな男のおかげで、万夜は祝福を手に入れることができたのではないかと思った。
呪いと祝福は紙一重だ。
万夜はどんな地獄でも死ぬことはできなかった。それは自分の中にいる小太郎を殺すことにもなるからだ。月と太陽が一つになってお互いを救っても、その後の万夜は「棺桶に片足突っ込んだ状態」と称されたり本当に苦しそうだった。小太郎の存在がある種の呪いにもなっているように見えた。
「お前ら二人を守る」と言ってもらえて小太郎の存在を祝福に昇華できたんじゃないだろうか。
銃口を自分に向けられていても必死に万夜の名前を呼んで守ろうとするレネの切実さが胸に迫る。当たり前だけど、彼も何かを失ってチャーチにいるのだ。これから先普通に友人や恋人をつくって生きていけるような道を捨てて、彼の唯一無二を選ぶ。
いつもメサイアをなにか別の言葉に置き換えようとするけどうまくいかない。
「お互いに唯一無二の存在」でも足りないかもしれない。
(完全に余談だけど、レネが自分が死ぬより万夜が傷つく方が怖いと思い始めたきっかけというかそこらへんの掘り下げをCODEEDGEで見たかったなあ…)
・穂波と昴流
メサイアというシステムを持たない彼らも共に生きることを決意する。
「手伝ってやる」というのがいいなと思った。
犯した罪は消えない。失った命は戻らない。代わってあげることなんてできないけど、そばにいて「手伝う」ことはできる。
このシリーズの中で純粋な悪役というのはあまりいない。
皆それぞれの信念のために戦ってぶつかりあう。
誰より人を救いたいと願った穂波の魂が贖罪によって救われればいいなと思う。
・ユキ
このシリーズでこんなにストレートに「愛していた」という言葉を使うのほとんどない気がする。
去り際に雛森の後ろ暗い気持ちを払拭して行くの、それこそ愛だなと思う。
昔何かの小説で、「人は手放すときにこそ真価が表れる。愛を持って手放すことは難しい」というような内容があった。
いつまでも未練がましく引き留めてもダメだし、あっさり投げ出すのもいけないと。
かつてのメサイアに最大限の祝福を送って逝くのは、これ以上ないくらい愛に溢れていた。
・雛森と小暮
——おまえが、おれを人間にしたんだ
小暮を人間にしたのが雛森なら、雛森を人間にしたのも小暮なのかなと思った。
CODEEDGEで万夜は雛森のことを「チャーチのシステムが服着て歩いてるみたい」と表現している。
5年間の眠りから覚めて、”メサイア以上の絆”があったというかつてのメサイアを失って、チャーチのシステムの一部として機能していたのが、小暮と一緒に試練を乗り越えることで血の通った人間になれたんだと思う。
(私はまだメサイア以上の絆が何なのか考えている。全然わからないけど)
肉体的・精神的に一つになって互いを救ったメサイアはいたけど、もし「人間になる」ことで2人が手を取り合って黎明を迎えることができるとしたら...
— 夜 (@yoru__07) 2019年8月23日
これは観劇前のツイートだけど、遠からずな感じだった。
悠里淮斗や柚木小太郎のような形で共にあることはできる。
それは少し悲しくてとても美しい結論だけれど、誰かの神様になって救うんじゃなくて、人間だからこそ手を取り合って歩いていけるんじゃないだろうか。弱くて迷ったり傷ついたりする人間だからこそ。
(もちろんどのコンビが選んだ道も尊くてかけがえのないものだけど)
ものすごくきれいに清々しく終わったからここで終わりでいいなあ、という気持ちとあの鐘の鳴る中で卒業していく彼らが見たいなあという気持ちどっちも同じくらい強い。
でもとりあえずは、この作品に拍手を送りたい。
おわり
それでも
さらざんまい最終回を経ての感想
現実では死んでしまった人は生き返らない。自分の犯した罪は消えない。失ったものは二度と元には戻らない。世界が素敵なものだとは限らない。
それでも私たちは生きていかなくちゃいけない。
歯を食いしばり拳を掲げること。声を上げること。歩みを止めないこと。生活の中に祈りは宿るのだ。
私は輪るピングドラムが大好きで、ほんとうにうつくしい物語だと思っている。
だからこそ幾原監督が作中で明確に自己犠牲を否定したのは衝撃だった。
輪るピングドラムで兄弟二人は運命の乗り換えをして世界から退場する。愛する人を救うために自分の身を投げ出すことはひどく耽美に見える。
けれどさらざんまいは違う。世界は革命されないし、運命の乗り換えも起こらないけど、だれも消えたりしない。あと全然耽美じゃない。(尻子玉を抜くシーンとかちょっと汚いし)どこまでも泥臭く地道に現実と向き合う。罪を償い、喪失の痛みを抱えて生きていく。
”それでもつながりをあきらめない”っていうのは、私を一歩先に連れ出してくれたように思う。
「選んでくれてありがとう」
輪るピングドラムで私が一番好きな台詞だ。世界で一番うつくしい台詞じゃないか?とすら思うほど。
でもこれは希望でもあり絶望でもある。
だって「選ばれないことは死ぬことなの」だから。
私はだれにも選ばれなかった。少なくとも私はそう感じていた。
どこにいっても何をしてても自分だけ浮いているように思える。
飲み会でトイレから帰ったら必ず私の席はなくなっている。ありきたりだけど私の人生はいつもそんな感じだ。常に椅子とりゲームに負け続けているような感覚。
だれも私を選ばないし、私もだれを選ばなかった。これからもそうだろうなと思う。
でも、それじゃあ私は透明な存在になるしかないの?
そういう暗いモヤモヤがずっとついてきてた私に、”それでもあきらめない”というメッセージは眩しかった。
つながりは脆い。画面をタップしてアカウントを消してしまえばそれでおしまい。後にはなんにも残らない。
それでも。
それでもつながりを求めてしまう。そして「だれかとつながりたい」という欲望を捨てなければ生きていけるのかもしれない。
”いざ、未来へ——。”
少し過剰で野暮にも思えるけど、それくらいまっすぐに届けられたメッセージを受け取ってしまったから。
現実はどうしようもなくて、私はいまだに内定0で就活中で昨日のゼミもサボったし、今日の夕飯は19円のもやしと30円の麺でつくった焼うどんだ。
金も才能もないしきれいでもない。
でもそれがどうした?
世界に絶望し円の外に向かおうとした男の子がそんなことを言うんだから、私のありふれた現実もそれがどうした?なのだ。
とりあえずもう少し生き延びようと思う。
見たいお芝居のチケットを二枚買ってあるので、あと三ヶ月は生き延びなきゃいけないし。
地獄で祈ったり中指たてたり
※この記事はメサイアトワイライト黄昏の荒野のネタバレを含みます
暁・悠久・月詠は視聴済みですがメサイアシリーズのことはまだまだ勉強中なのでおかしなところがあったらそっと教えてもらえると助かります。
メサイアがお互いにとってどれだけ特別な存在か知ってしまってからだと、サクラのように支えとなる拠り所を持たない北方側はしんどい。サリュートとスークは唯一無二の存在であり続けるだろうけど、その関係に名前はつかない。寄り添うことはなく、孤独な一人と一人のまま。
・メサイアって
あと鐘を鳴らすシーンが印象的だった。教会で鐘を鳴らすシチュエーションってかなり限られてるわけで、ある意味あのときに今までの白崎は死んだんだなって思った
— 夜 (@yoru__07) 2018年12月1日
これは初見時サクラが卒業するときは必ず鐘が鳴ることを知らなかったときの感想だけど、ある意味的を射てるなと思う。卒業ミッションで完全に今までの自分と決別し、新しく生まれ変わる。サクラとして第二の人生を歩みだすためにしがらみをすべて捨て(捨てきれないけど)、最後に手の中に残るのは己のメサイアのみ。たった一つ手の中に残るもの。
“いつかこの地獄にも光は差す”
この台詞のように「いつか必ず救われる」というのは希望だ。というより、そう思わないと苦しさに耐えられないのもあると思う。人は理由もなく苦しんでいると思いたくないし、思えない。
それでも救われるべき「いつか」のために「今」苦しいのは肯定されるべきではないと思う。じゃあどうするか、「いつか」のために身を擦り減らして戦う「今」に与えられたのがメサイアなんじゃないか。
・万夜
“休んでた分ちゃんと働くよ、二人分ね”
と言うシーンがあまりにも辛かった。あんな小さな体で二人分の意思を背負って生きるのは重すぎないか。愛する男とひとつになり、死にたくても死ねない、だって太陽と月は溶け合ってひとつになったから、小太郎は万夜の中で生きているから、そんな地獄でもがき続ける万夜はなんて強い男なんだろう。
新しいメサイアのレネが彼を救ってくれるのを願っている。レネは大柄な身体やまっすぐな人間性がどことなく小太郎に似ていると思う。でももっとぎらついていて、レネと小太郎は違う人間だけどどちらも太陽だ。いつか万夜の世界に朝日が昇るといいな。レネがどうやって「棺桶から片足出させてやる」のか楽しみ。
・サリュートの結末
祖国のためにすべての罪を背負って死んだ男。究極の自己犠牲だ。舞台セットの錆びて傾いた十字架はサリュートが磔になるもの。そしてラスト、この十字架はサリュートを弔う墓標に意味を変える。鳥肌立った。
自己犠牲と言えばもう一人、穂波だ。誰より人を救いたいと願い、自らを投げ出す。
そんな彼が誰も救えないのは皮肉だなと思う。勝手に神様に祀り上げられて、それでも人を救いたいと願ってやまないのはきっと地獄だ。
サリュートにしろ穂波にしろ、そのモチベーションはどこから来るんだろう。なんで見返りも求めずに自分を犠牲にできるんだ?人は人を救おうとしてしまう生き物なんだろうか。そのためなら昨日を捨てられるのかな。
私にはまだわからない。たぶんもっと地獄について考え続けないといけない。
・スーク
大嫌いで殺したくて気になって仕方なくて、ってそんなのもう愛してしまっているのでは?
愛かどうかはわからないけど、確実に深い情を抱いている。でもスーク→サリュートとサリュート→スークの感情の重さは同じじゃない気がする。私にはスークのほうがずっと重たいように見えた。でもラストシーンで決して一方通行ではなかったことがわかった。スークはサリュートのおかげで暁を知った。それは「同志が暁を知ることを望む」というサリュートの最後の願いを叶えたってことなんだと思う。
二人はメサイアじゃないから背中を預ける存在にはなれないけど、お互いの唯一でスークの心の中にはサリュートが残り続けるんだろう。
たった一人で世界の矛盾を正すために旅立ったスークが舞台上から消えるときのジャンプが忘れられない。昨日を捨て、生きるのはいつだって「今」だ。
あっちにはあっちの正義があり、こっちにはこっちの正義がある。戦争ってそんなものなんだろうと思う。
暁を知り、黄昏を越える。
そうやって地獄を生き抜く男たちの生き様に魅せられてしまった。
彼らが迎える黎明はどんなだろう。
とあるボーイミーツボーイについて
毎週毎週BANANAFISHのことを考えてきたけど、最終回を見てこれは愛の物語なんだ、と思った。彼らを取り巻く状況は複雑だけど、一人の少年の魂が愛によって救われるっていうシンプルな話なんじゃないか。
突然だけど私は“愛”というものに対してすごく懐疑的な感情を抱いている。
まだ私が未熟だからかもしれないけど全然愛のことがわからない。
親が言うことを聞かない子どもを叱るときにオバケが来るよって脅すような、そんなようなものだと思っていた。
小学生のときハリーポッターを読んでダンブルドア先生がしきりに愛という単語を繰り返すのをうさんくさいなと感じた覚えがある。
愛が現実世界に実態をもって確かに存在するものだと感じることができなかったけど、アッシュと英二の関係はこの言葉でしか表せないと思った。
私はお互いのためなら引き金を引けるような関係性の名前を知らない。
恋愛も友情も二人の間柄を示すのには不十分な気がする。
アッシュは英二に強い信仰に近い感情を抱いて依存していく。
アッシュは英二のために軽々と引き金を引き自らの命を差し出そうとする。
日本で平和に暮らし棒高跳びを頑張っていた英二はアッシュのために銃をとり人に向けて発砲する。
銃を撃つというのは大変なことだ。なぜなら簡単に人を殺せてしまうから。特に日本で生まれ育って銃に馴染みのない英二が人に向けて撃つのには相当なハードルがあったと思う。
でも英二はそんなハードルも飛び越えてアッシュを守ろうとする、それは物理的にも精神的にも、だ。
遠い異国の土地で出会った何もかも違う二人の少年は、愛し合うことでお互いを救った。
そういう意味で私はとても救いのある結末だったと感じた。
暗く壮絶な過去を歩んできたアッシュが人生の中でわずかでも幸せだと思える時間があったことは間違いなく救いで、この世界でできる最大限のハッピーエンドだったと思う。
図書館で眠るように息絶えたアッシュの安らかな表情で確信した。
今まで彼を苦しめてきた過去のすべてが火の中に消えていって、そうして最後にはイノセントな存在になれたんじゃないかと思う。
シンについて
シンはすごく目がいいと思う。物事を俯瞰で見られる目を持っていて、それは間違いなくボスの素質だ。まだ若くて体つきも少年そのものなのに(身長気にしてるのかわいい)登場人物たちのなかでもすごく冷静でよく気の付く子だなと思う。
でもショーターがいなくなってしまったことで突然ボスになり、自分の能力や立場に気持ちが追い付いていなかったりするところは年相応で、そのアンバランスさも魅力的に見える。
なんかシンってめちゃくちゃ健康だなと思う。身体も心も健全だ。
年相応に悩んで葛藤して時には失敗もして、アッシュは天才だけどそれとはまた別の良さがある気がする。地に足ついた、といえばいいのかなんかそういう感じの。
今後は家族だったりチャイニーズとして血縁の業を背負っていくのだろうなと思う。
できるだけ健やかに暮らしてほしいけどなかなか難しそう。
ユエルンは救われるか
彼は救いを得られなかったもう一人のアッシュだ。
物語が進むにつれアッシュと英二の敵でしかなかった彼が悪事に手を染めるようになってしまった理由が明かされていく。
人生において常に被支配者だった彼が愛を求めて苦しむ姿は癇癪をおこした子供の姿そのものだ。
だからこそユエルンに救いの兆しが見えてよかったと思った。
シンは健康だからこそ誰かに依存したりされたりしなさそうなので、ユエルンとシンはアッシュと英二のような関係にはなれないような気がする。
それでも二人は二人のやり方で支えあっていくんだろうな。
雪山を登り続けた孤独なヒョウは、唯一のものを探していたのかもしれない。
輝くもの、永遠のもの、かけがえのないもの。
そして美しいヤマネコは最後にそれを見つけた。
愛し愛されることで人は救いを手に入れることができるんじゃないかと思う。
英二は運命からアッシュを守りたいといったけど、私は二人がNYで出会うことも運命だったような気がしている。
隣で寄り添って抱きしめあうことはもうできないけど、彼らの魂は永遠に共にある。
それはあまりにもかなしくて美しい結末だ。
毎週涙してばかりで本当につらくて、でも今この物語に出会えてよかったと心から思う。
ーAslan Callenreese が安らかなることを願って。
アイドルのおわり
アイドルの終わりをみた。
武道館での二日間のライブをもって私の大好きな人たちはステージを降りた。
「活動に一区切りをつける」という曖昧な表現のせいで先のことに確証が持てなくて不安だった。
それでも私の好きなアイドルがステージをおりたことに変わりはない。
次にステージ上の姿を見るのは何年後か何十年後か二度とないのか。
わからないけど、あの日確かに私の好きなアイドルは終わりを迎えた。
私は今までアイドルというものを斜めに構えて見ていて、少しバカにしたような気持ちさえあった。なんで他人のために泣いたり笑ったりできるか全然わからなかった。自分以外のことでそこまで感情を左右されるなんてアホらしいし、一生自分とは縁遠いものだと思っていた。
そんな私に一生懸命頑張っている人の姿は胸を打つということを、アイドルの熱さを教えてくれたのに、終わってしまった。
至上最大規模の伝統ある武道館で、最後なのにライブはどこまでも楽しくて嫌でも笑顔にさせられた。
こんなに輝いてる人たちが終わってしまうなんてあっていいわけがない。
応援が足りなかったと思った。
もっと早く出会えていればと自分を呪った。
ファイナルライブ後どうやって生きていけばいいんだろう、とずっと考えていた。
「明日に連れていく」って言ってくれてたのに、その明日に一緒に来てくれないなら意味がない。
最後の挨拶でメンバーが様々に気持ちを伝えるなかで、センターの男の子は言った。
「これは勝ちです」と。
アイドルに特別詳しいわけじゃないけど、アイドルの終わりはもっと暗くて歓迎されないものだと思っていた。
ファンに永遠を誓うアイドルが終わるのは負けでしかないと思っていた。
彼はそれを「勝ち」だと表現した。
こんなことってあるの?
明日からアイドルじゃなくなる男の子が一瞬でたくさんの人を救っていって、そうやってステージを降りるなんて、この世にあっていいの?
思いっきりぶん殴られたような衝撃だった。
彼がそういうなら私たちは勝ったんだって素直に思えた。
何にかはわからないけど、たぶんそんなのはどうだっていい。
世の中に終わりのないものは存在しないし、アイドルも例外ではない。
でも辛くて悲しい終わりだけじゃない。
晴れやかで惜しまれながらも門出を祝福される、そんな終わりも確かにあった。
だって私たちは勝ったんだから。
もうアイドルじゃなくなってしまった男の子たちへ
あなたたちにありったけの幸せが訪れますように、
辛いことなんて一つもありませんように、
全部の夢がかないますように、
私はあなたたちのおかげで生きていこうと思いました。生きていけると思いました。
ありったけの感謝を送ります。